アルカナ出版は、18世紀ヨーロッパ、スウェーデン国の科学者、哲学者、神学者エマヌエル・スヴェーデンボリのラテン語原典を翻訳し、出版・発行しているささやかな出版組織です。アルカナとは「秘密」や「秘儀」を意味し、私たちは真理を世に発信することを使命として活動しています。

十戒・東洋と西洋

                         ダニエル・フロスト

 「あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの 目 の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを 正しく 守り、寡婦の訴えを弁護せよ。」(イザヤ書1:16-17)
 「〈みことば〉の教えによると、人が悪から清められていなければ、その人の善は善ではなく、その人の信心も信心ではなく、英知も本物ではありません。その逆もまた本当です。」(生命の書30)
 秋が訪れ、夏の間の労働で実った果物や野菜が収穫される時期です。地元の農家は収穫物を隣人や友人と分かち合うことも多く、受け取った人々もさらに他の人々とその果実を分かち合い、他人に、そして複数人に広がっていきます。この素
晴らしい習慣は、仁愛の外面的な表れです。このように豊かさを分け合う季節は、「聖なる著作」が仁愛について語る内容を振り返る素晴らしい機会です。
「天界の秘義」10185.2にあるように、果実は信仰から生まれる行い、またはより深い意味で仁愛の行ないを象徴しています。
「・・・果実は実際の善に相応します。善は果実のように成熟して、行いとして現れます。だからこそ、聖書において果実は仁愛の行いを意味します…。これは、信仰や信念から生まれる行いや行動こそが真に重要であり、それがその人の霊的命の「果実」と見なされることを強調しています。」

上記の「生命の教義」30節からの引用は、真の仁愛は、自己愛と世間愛の傾向を浄化し始めるときにのみ行うことができると指摘しています。与える行為自体が悪いわけではありません。実際、それは内面的な状態に関わらず、気分を良くさせてくれます。しかし、これを行うことが実際に霊的な果実を得たことを意味するのではなく、どれだけ自分の行いの中で主を第一に置いているかにかかっています。主への真摯な愛がまず最初に来なければ、私たちの行いに真の仁愛は宿りません。これは、教義から真理を知るだけでなく、世俗的な弱さの中で誘惑を感じたときに、それが主に反するものであるから、自分自身に「ノー」と積極的に言うことを意味します。
  私たちにとって最大の指針となるのは、出エジプト記20章に示された十戒、すなわちみことばの真髄です。スウェーデンボルグは著作の中で、十戒と真の愛の関係について強調しています。第一の石板には神への愛が、第二の石板には隣人への愛が示されており、これらは仁愛に満ちた人生を送るための普遍的な指針です。十戒を知っているだけでは十分ではなく、それが心に刻まれ、日々の行動に表されなければなりません興味深い点としては、近年多くの観光客が日本を訪れるようになっていることです。彼らが日本を訪れるのは円安が要因の一つであるだけでなく、この社会のあらゆる側面に浸透している秩序と勤勉さを高く評価しているからです。ある意味で、彼らはここの人々の誠実な努力の成果を味わいに来ており、これは世界の他の場所ではなかなか見つからないものです。日本人が観光客として海外に行くときは、たいてい自国で忠実に守っている規則を守り、良いイメージを保とうとします。義父は、これは神への真の愛というよりも、恥の意識からくるものだと言っていました。キリスト教が人口の2%未満であることを考えると、それは納得できるかもしれません。


  しかし、外国人観光客の中には、まるで日本を巨大な遊び場のように思って訪れ、そのように扱う人々もいます。称賛しに来たはずの秩序を破り、社会が円滑に機能するための厳しいルールを乱すことが楽しいネット動画のTikTokのネタになっています。電車の中での恥ずかしいダンス動画などもその一例です。
非常に残念なことに、これらの観光客は多くの場合、聖書や十戒が自国の法律に根付いている国々から来ています。彼らはそのような戒律を持ちながらも、観光客としての自由が与えられると、それらを完全に無視してもよいと感じているの
でしょうか。この問題は古くから続いています。スウェーデンボルグもこれに気づき、「神の摂理」153節でこのように述べています。      
  「わたしがびっくりしたことですが、悪を罪として避けるということ、そうしなくては罪がゆるされないということ、罪がゆるされなくては救われないということについて、キリスト教世界の人は、みんな知っているはずなのに、何千人に一人もそれを知らないことです。」と。十戒において、第二の石板の鍵となる言葉は「~してはならない」です。そして、これらを行わないことによって、第一の石板にある「~せよ」が私たちの人生の中心となります。
  これは遺伝悪に対抗するものであり、場所によってつけたり外したりできるものではありません。宗教生活は、主の戒めを守ることに依存しています。また、スウェーデンボルグの教えは、各戒めがどれほど深く豊かな意味を持っているかを説明しています。これらは主の天界を支える力強い柱なのです。
  十戒を自らのいのちにしてこなかった人々が天界に入るとき、天界の純粋な善を認識し、そこにどうしても入りたいと願っているにもかかわらず、苦痛を感じます。スウェーデンボルグは「天界の秘義」540節でこれについて述べています。
「他界にやってくる人は、ほとんどみな、天界的至福や幸福がどんなものか知りません。内的〈よろこび〉が何で、どんな性格のものか知らないためです。
ただ肉体的・現世的な悦楽や喜びから、感じとっているに過ぎません。結局知らないから、存在しないと思ってしまいます。ところが肉体的・現世的な喜びこそ偽物で、存在しないのに匹敵します。
  そのため誠実な人でありながら、天的な喜びを知らない人は、それが味わい認められるよう、まず想像を絶する楽園に連れていかれます。それについては、神なる主の慈しみに頼って、次に述べていきます。
 ときに天的楽園に到着したと思っている人がいましたが、本物の天界的幸福ではないと教えられ、〈よろこび〉の内的状態を知るチャンスが与えられました。〈よろこび〉の内奥部が感じとれる状態です。かれらは平和な状態に移され、〈よろこび〉の内奥部にまで入ることができ、このような平和は、考えることも表現することも不可能だと言いました。それから純真無垢の状態に入れられ、内奥にある知覚に届き、本当に霊的・天的な善とはどんなものかを、知ることができました。」
  では、天界での人生のような、真の仁愛活動を行うために、私たちはどのように準備すればよいのでしょうか?それは簡単です。第一の石板を私たちの心に刻むために、第二の石板の戒律に従うのです。聖書のある国々から来た人々が、旅行
中でもその価値観を実践できればと思います。彼らが日本を選ぶのは、その価値観が理想的なものに見えるからです。
  一方、ここにあるように見える素晴らしい仁愛活動の豊かさのなかで、何が欠けているのでしょうか?仁愛は神への愛、教会への愛、そして隣人愛から行うべきだという、より深い認識が欠けているのかもしれません。社会的に恥だからということで悪を避けるのではなく、愛と仁愛から出発して善を行うのが本来の姿です。もし、海外の人々が日本から、その「してはならない」という感覚を学
び、それを神への真のキリスト教的愛から行うことができたなら、もっと良い世界が作られると思います。

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